パン食一代男・古味茂
陳列ケース1個からはじまったの巻
初代社長である古味茂は、高知県高岡郡越知町で昭和14年に7人兄弟の5男として生まれました。6歳の時父親を亡くして以来7人の子供を抱えて苦労する母の背中を見て育ちました。小学校の時から新聞配達をし、自分の学費は自分で稼ぐ自立した子供だったようです。この仕事を選んだきっかけは、子供の頃初めて口にしたわずかな量のお饅頭に感激し、「和菓子職人になればこんなに美味しいものを心置きなく毎日でも食べられる」という思いだけだったといいます。
昭和44年、初代社長である古味茂は10年間の修行を経て27歳で独立。このコミベーカリーの原点でもある「こみ製菓」として出発しました。
現在の店舗から数メートル西側の古いアパートの1階。その2階の四畳半と六畳の二間が4人家族の住まいです。従業員はおらず、夫婦だけ。まさに陳列ケースわずか一個からのはじまりでした。
そのコミ製菓がパンづくりをはじめたのは開店1ヵ月経ってからのことです。当時、電車通りからほんの一歩とはいえ、まわりには大きなビルも会社もなく、蛙が鳴く田んぼ。商売という点からすれば、決していい立地とはいえません。
そこで、古味は新たな「パンづくり」に挑戦することで、立地条件の悪さを解消しようと考えたのです。「和菓子やケーキは毎日食べられない。お客さんも毎日は来てくれない。そこで、毎日買いに来てもらえるパンをつくろうと思い立ったわけです。だから、僕のパンにはお師匠さんはいません。すべて独学でした」
無謀といえば無謀、大胆といえば大胆。とにかく毎日が試行錯誤の日々でした。しかし、その古味の悪戦苦闘をよそに、パンの人気は嬉しくも急上昇。あっという間に口コミで広がっていったのでした。
当時、お師匠さんのいない古味のつくるパンは技術的にも未熟で、お世辞にも格好のいいものではありませんでしたが、型にはまらない独創性と面白さがあったようです。たとえば、あんぱんにしても、和菓子づくりで学んだ上品できめの細かい飴を使う。和菓子づくりで得たお菓子づくりのノウハウをパンの世界に持ち込んだというわけです。
いわば、それが現在のコミベーカリーの持ち味でもある。いやはや、人生はどこで何が功を奏するかわからないものです。
貧乏神がカローラに乗っていたの巻
その開店1年目の夏、あの台風十号がやってきました。実は台風襲来の前日、借金して買った古味念願のマイカー「カローラ1200」が納車されたばかり。夜、仕事が終わって夫婦ふたりは、まさにルンルン気分でドライブに出かけました。手結のお餅屋さんまでの往復です。そして、車庫に車を入れたその翌朝。なんと周囲は水びたし。胸まで浸かるほどの大洪水でした。
「車はどうなったんだろう」古味は、ずぶ濡れになりながら車庫へと行きました。ところが、そこに車がない。少し離れたところに流されていたのです。もちろん、店も浸水。オーブンも、ミキサーも、全部水に浸かってダメになってしまうという被害でした。
「その時、つくづく、僕には貧乏神がくっついているんだなぁと思いました」と、古味は言います。台風の片付けには、ふるさとの越知町から兄弟たちが手伝いに来てくれ、災害復興費を百万円借り受け、また、機械を買いました。その兄弟たちが、自分を誇りに思ってくれている。
それが古味茂を支えていました。どうやら貧乏神は、あの時、カローラに乗って出て行ったのかも知れません。
生命保険をかけて大借金。コミ―ベーカリー移転はまさに命がけの巻
40歳過ぎた頃。
突然、古味は仕事中に呼吸困難に陥って倒れ、救急車で運ばれるという緊急事態がありました。「突然、息が出来なくなった。意識がもうろうとしていくなかで、女房と子供の泣き声が聞こえました。ああ、僕はこれで死ぬんかなあ、まだ、やりたいことがいっぱいあるのになあと思いましたね」
いわゆる、過労死寸前。その生活パターンを聞いた医者が思わず怒り出すほどでした。入院、そして退院。しかし、退院してきても夜が来ると呼吸が苦しくなる。そういう状態が2~3ヵ月も続きました。
「その頃、夜が来るのが怖かった」と、古味は息苦しそうに語ります。自分の将来に不安を感じた時でもありました。それを見兼ねた妻の由里(現・会長)は、「この仕事をやめて、いなかに帰ろう。生活は私が働いてなんとかするから、お父さん、もうやめて」それを聞きながら、古味はもう一度、自分の可能性や夢に賭けてみたいと思ったのです。苦境に立つ男の反動のようなものでありました。
そして、1人から2人、3人と従業員を増やしていくなかで、一念発起。古味は店を拡張しようと言い出したのです。それが現在の場所。1980年頃のことです。
もちろん妻の由里は大反対。身体のことを心配してのことでした。しかし、描いた夢はおいそれと消せない。万が一、自分に何かがあったとしても借金が払えるようにと、1億円の生命保険をかけました。保険をかけて、夢に賭ける。しゃれにもならないほど、本人は本気の本気。命がけでした。
しかし、この移転がコミベーカリーの人気を爆発させるきっかけとなったのです。
コミベーカリーの建物には「SINCE1985」という表示がありますが、それはこの再出発を示すもの。今度ご来店いただいた時に、ぜひ見てみてください。
ベストセラー商品チーズケーキの巻
商標登録証もいただいている「コミベーカリーの窯出しチーズケーキ」は創業13年後に誕生したスフレタイプのしっとりしたチーズケーキ。 当時は折しもチーズケーキの大ブーム。ティラミスやパンナコッタのブーム以上のものでした。毎日店頭に立っていた妻の由里から、お客さまからの要望だからとチーズケーキを新商品としてつくって欲しいという注文が持ち込まれたのです。
しかし、それがお客さまのニーズとわかっていてもどうにもならない。
「実は私、チーズが大の苦手なのです。」
古味はきまり悪そうに笑います。
では・・・それなのに、なぜチーズケーキは生まれたか。実は、これ、神様ならぬ夢のお告げだったのです。
「夢の中に配合がでてきたのです。ぱっと目が覚めて考えるとそんなおかしな配合でもない。忘れないうちにと早速つくってみました。それが、今のチーズケーキの第一号です。」ひょうたんからコマというか、嘘のような本当の話ですが、紛れもない事実。それにしても夢の中まで働き者です。
ガードマンがいるパン屋さんの巻
店頭にはコミベーカリーの専属としてガードマンが立っています。
全国でもパン屋さん専属のガードマンは珍しいと言われますが、そのきっかけはこの場所に移転してきた時のことです。
オープンの混雑からガードマンを警備会社から雇ったものの、数日経ってもオープンの賑わいは一向に引かない。それじゃあ1ヶ月間来てもらおうと警備会社と契約しました。1ヵ月のはずでしたが・・・現在に至っています。
コミベーカリー前は道路が狭く、交通量が多いのですが、近所の昭和小学校の通学路になっていて毎日たくさんの子供たちが通ります。当店のお客さまと、大切な子供さんたちの事故は絶対に防ぎたいと子供さん達の安全も見守っています。
現在、昭和小学校のPTAの「こどもみまもり110番のいえ」にも指定していただいています。学校の行き帰り、子供さんたちが当店のガードマンと元気に挨拶を交わす姿は本当にほほえましいです。地域の方々が支えてくださったから、現在のコミベーカリーがあります。
パンやケーキを販売するだけではなく、地域の皆さんのお役に立てて、愛され、親しまれる、ベーカリーショップでありたいと願っています。コマーシャルをしないコミベーカリーの唯一の動く広告です。
お客さまが先生ですの巻
師匠を持たずにパンづくりをはじめたコミベーカリーにとって、店頭でお会いするお客さまが先生でもあります。対面販売によってお客さまが今、どんな商品を望んでいるかが伝わってくる。お待たせしながらも、いまもかたくなにこの方法を続けているのは、その生の声を聞きたいからです。
夫婦ふたりからはじまった店も、いまや従業員40人。もう立派に店も切り盛りしてもらえるというのに、古昧は手が空いている時は店頭に立ち、食パンを切ったりしていました。「うちの従業員はみんなベテランぞろいなので僕が出る幕じゃないと思っているのですけど、店頭に立つと、なぜかホッとするんです。お客さまと遠くなるのが、僕にとってはいちばん怖いし、不安。どんくさいスタイルだけど、対面販売は守っていきたいと思います」
はっきり言って、貧乏性です。
あんぱんもお土産になりたいの巻
ドーナッツ感覚でお持ち帰りいただける「土佐あんぱん」。
つぶあん、こしあん、しろあん3種類の自家製あんを、高級卵「土佐ジロー卵」を使った風味豊かなパン生地で包み込んでいます。平成五年、「全国菓子博」 の名誉総裁賞に輝きました。
そもそも、この「土佐あんぱん」は、コミベーカリーのケーキだけでなく、パンもお土産としてお客さまに持っていっていただこうと生まれたもの。平成4年に開発した、ギフトパンです。これは日持ちしないのが欠点ですが、だからと言って、日持ちさせるための薬品は使いたくない。つまり、コミベーカリーの主張も一緒にギフトとして贈っていただくというわけです。
手軽に持っていける6個入1,080円、10個入1,740円。土佐のパンとして県外へも発送しています。
いささかコマーシャルになりました。
観光バスが、パンを買いに走ってくるの巻
お客さまが口込みで広げてくださったお陰で、TV、新聞、雑誌などにも頻繁に掲載されるようになり、四国以外にも中国、関西方面からも、高速道路を走ってわざわざコミベーカリーに来てくださっているようです。
その県外のお客さまに加えて、ここ最近、観光バスがやって来るようになりました。お聞きしてみると、視察ではなく、パンを買うためだけに走って来てくださっているのだそうです。
本当にありがたいことです。
業者さんにもらった帽子を離さないの巻
お気付きかもしれませんが、古味は、業者さんからもらった○○製粉という社名入りの帽子をいつもかぶっていました。時々、家の中でもかぶっていたりします。
やや頭が薄くなってきたせいばかりではなく、昔からのこと。
「もう身体の一部になっていて、かぶらないと忘れ物をしたようで落ち着かない」と、また、貧乏性なことを言っています。
食品づくりという仕事上、髪の毛を落としたりは厳禁。そういう意味での帽子でもありますが、古味にとっての仕事帽はこれ。
他の帽子では気に入りません。「僕たちパン屋の仕事は、仕入れ業者さんのお付き合いから成り立っています。困った時に助けてくれる業者さんが、うちにとっての大切なパートナー。人と人とのお付き合いでここまで来られたんだと僕は思っています。だから、その帽子をかぶりたい」
商売の原点は、やっぱりハートです。
パン食一代男 古味 茂
2009年8月24日逝去 享年69歳。